「暴力」は許されない行為だと思う。
単純に、殴る蹴る斬る撃つ殺すと言った物理的暴力だけじゃない。
人を騙す、人を貶す、人を煽る。
「心理的」な行為だって変わらず「暴力」だ。
絶対に許されてはいけないし、罰せられるべきだ。
民法にしろ刑法にしろ、「これをやってはいけません」「これをやったら罰せられます」という行為は、どれも皆「人を傷つける」または「貶める」「否定する」行為だ。
兎に角「暴力」という行いは許されない。
ただ、それでも。
目の前の「暴力」を否定しきれない時は、ある。「暴力」に意味を見出したくなってしまう、そんな時はある。
「ghostpia(ゴーストピア)」で繰り広げられる主人公の過激な暴力劇は、そうした”うっかり”をやらかしそうになる一例だった。
この主人公、本当に躊躇なく「暴力」を振るう。
警官隊と騒動を引き起こし、殴りかかり、銃を奪い、突きつけ、ぶっ放す。
街を支配する教会に忍び寄り、見張りを買収して首領蜂をかます。喧嘩を売ってきたギャング達を返り討ちにして、血みどろの札束を奪う。
宗教を信仰し「鬱陶しい」程に欠点のない少女への扱いは、正に下衆の極みである。
自首を訴える彼女を殴り、銃を突きつけて脅し、最期には身代わりにする。彼女の良心を煽って金を盗ませ、むしり取る。首をへし折られた彼女の死体に火をつけ、暖をとる。
相手側も相当の食わせ者である事も判明するのだが、それにしたってもうどこに出してもおっかない、とんでもない女だ。
…なのだけど、本作を読了した時、彼女に対する嫌悪感はなかった。”やり過ぎ”な行いに引いた事もあるし、「共感」や「同情」もない、とは思う。
ただ、トンと腑に落ちる感覚はあった。本当にどうしようもない人間だけど「そういう人間もいるんだ」と悟りたくなる。なってしまう。
何で、と理由を考えてみた。それらしい結論はポンポンと数個出てくる。
だけど、自分なりに納得が行く理由は一つ。
彼女は「善意で覆われた暴力」を全否定し続けているのだ。
本作で主人公の前に立ち塞がる「敵」は、何の因果か皆「善意」を押し付けてくる人間だ。
- 宗教への妄信
- 誰かと友達になりたい
- 仲の良いあの子のため
主人公の視点では、友達が自分との関係を図りかねたり、ふざけ合って愚痴りあったり、笑いあったり…と言った「善意」と、奴らの『善意』は、明確に異なる存在として描かれている。
率直に言うなら、奴等は全員、「善意」を武器にしている。「善意」を鎧としている。「善意」で、他者を傷つけようとしている。
その「善意」で自分の友達を奪おうとしてくる奴らに、主人公は躊躇いなく「暴力」をふるう。
「善意」は、ある意味「悪意」より遥かに鋭くて硬くて残虐な武器だ。
なまじ単純な感情が根幹だからこそ緻密な理論より論破しづらく、下手をすれば「私は良かれと思ってやったのに」と、さっきまで他人を嬉々として苦しめてきた「加害者」が「被害者」にすり替わってしまうことすらある。
どんな武器や兵器より、「善意」は人を深く、何より”安全に”傷つけられる。ドラマやCMでも、「貴方のためだから」と前置きを置いて他者を否定する・束縛する行為は後を絶たない。
無意識にでも意識的にでも、現実でも空想でも、「善意」は度々”便利な”暴力として扱われる。
ーそれ、卑怯じゃないか。
そんな意思や感情があるのかないのか分からないけど、この主人公は「善意」を持った敵にズタボロで、エゲツない「暴力」をお見舞いする。
銃を撃ち、全力で蹴飛ばし、爆弾を投げつける。
出会ってしまった事は偶然なのかもしれないけど、出会った以上は奴らの鼻っ柱をブチ折るまで、徹底的にぶちのめす。
正直、彼女に大人と言えるような信念や思想があるとも思えない。だけど、「自分の身を守りながら振るう」暴力に、俺が今も持っているのと同じ恨みを、この少女は燃やしている。
自己を守らない純粋な悪意や「暴力」が許されて良いわけじゃない事も分かっている。そういう理屈以上に、「卑怯」な暴力が、本能的に直感的に許せないだけなんだ。
やり返されても、やらずにはいられない。ノーガードで、強引で、不器用で、誠実な「暴力」に依存して、卑下して、実行する彼女に、何処か愛おしさを感じ始めてしまう。
中盤、狂った老婆に搾取されるヒロインを助ける為に主人公がカチコミをかけるシーン。(因みにこの時そのヒロインも事故で射殺されているまぁ死んでもすぐ蘇る世界観だからあまり問題はない。ついでに主人公も一度死ぬ)
この老婆が「あたしは愛情たっぷりに育ててやった」という台詞を吐くんだが、正直、主人公以上に俺自身が強い憎悪を抱いた。
実際その台詞が、主人公(≒プレイヤー)が想定している意図なのかどうかは、わからないのだけど。
他者の「善意」や生命を踏みにじって「否定」しているんだから、主人公の行いはかなり重い「暴力」だろう。
だけど、その他者や「善意」がまた他人の生命や尊厳や財産を踏みにじっているのなら、それを無理矢理にでも止める事を、否定できるんだろうか。否定して良いんだろうか。
「善意」に隠された悪意が守られうるなら、ある意味、正々堂々とした「悪意」だけが責められるのは不公平じゃないのか?
でも、そうすると「暴力」に「善悪」ってあるのか?認めていいのか?
いやいやいやいやいや、ちょっとはっちゃけすぎた。混乱した。「暴力」はダメだ。否定すべき行いだ。誰かを恨んだり憎んだりすることと、それを「実行」してしまうこととは天地ほど違う。
この主人公に「キャラ」として好意を持っていても、「人物」として共感しちゃうのはまずい。良くない。ふぅ、危ないところだった。
でもまぁ、いい経験にはなったかもしれない。
自分の中の「地雷」を、知っておく事は結構重要な事だと思う。誰の被害にもならない内に、あえて爆発処理してしまう事は悪いことじゃない。
他ならぬ自分が、無道な「暴力」を振るわない為にも。
ゲームは「暴力」という行為を合法的に『追体験』できる娯楽だ。
「化物を剣で斬る」「ゾンビを銃で撃つ」と言ったヒロイックな暴力に留まらず、「論戦で検事を論破する」「軍勢を率いて敵国を滅ぼす」と言った軽重問わず「暴力」という禁忌を、何ら罰せられることも責められることもなく追体験できるのが、ゲームという娯楽の一つの本質でもある。
ネットマナーやチート行為など、ゲーム内での「反則」を起こさない限りは…とは言うけど、そんなの全ての権利に言えることだから一々触れることでもないだろう。
例えば「世界で最も売れたビデオゲーム」の第二位は、「プレイヤーの意のままに犯罪を行えてしまう」グランド・セフト・オートVだ。
「結果的に」他者を害してしまう事がある娯楽は数多いけど、空想環境の中で暴力を(基本的に)誰にも責められる事なく「実行できる」のは、ある意味でゲームの特権と言ってもいい。
少し前まで「ゲームが人間の暴力性を助長する」なんて批判をちらほら見ることが多かった。今でもそういう意見を聞く事は度々ある。けど、今の俺は「真逆」の意見だ。
人間、自分の中の黒い性分を内に留め続けるのは難しい。嫉妬しかり恨みしかり、「暴力」しかり。
ただ自分の内に留まっているだけなら自分の問題で済むだろうけど、その黒さが暴発してしまうと、度々取り返しが付かないことになる。
ゲームが人間の「黒さ」を深めてしまう例があるのは否定できないけど、「黒さ」を少しも持たずに、或いは一才脱却して社会を生きていく事はとても難しい。
「誰にも迷惑をかけない」事を前提に、そうした内面の黒さを発散する、慰める手段は、持っていて損はないと思う。と同時に、その「黒さ」を見つめ直すキッカケになるのも、ゲームとの付き合いかたの一つだ。
おおっぴらに他人に勧めるには憚られる節もある「ghostpia」だけど、そのことへの理解を深めるキッカケになったのは紛れもない収穫だと思う。
「暴力の『追体験』を楽しむ」のもゲームの魅力なら、「暴力とは何か?を自分なりに理解する」ことも魅力としても良いんじゃないかな。
現実では決して「許されない」ことだからこそ、ただダメだという以上に「何が、どれが、なんで」という事を考えたり、思いを馳せる事は、意外に大切で、貴重な経験なんじゃないかな。
「深淵を覗く時、深淵もまた貴方を覗いてる」なんて諺もある。だけど、「深淵」に飲み込まれない様にしながら「深淵」を理解する事は大切な事だと思う。
どのみち、黒さや醜さとは一生涯の付き合いなんだから。
………まぁ、このゲームのキャラクター達と「同じ」世界にはいたくない、というのも本音
だけどw(巻き込まれそうだし……)
〜〜Fin〜〜
【kou】
この度、こうゆうさんのお誘いに応じて本コラムを書かせていただきました。
他サイト様に寄稿するのは初めてで拙い箇所も多いですが、いつものブログに投稿しているものとは気風が変わった文章に仕上がったかな…と思います。
自分が書いているブログは以下のURLのとおりです。宜しければ。
とあるゲーマーのぶつくさ話