親指シフトと呼ばれる変わったキーボード入力方法にハマっていた時期があって、一人でひたすら「あいうえお」を打ち込む練習していたことがある。「歌うように打てるんです!」と、とある作家さんが布教する触れ込みを本気で信じたからだ。
ローマ字ではなく、かな入力で打ち込むので打鍵数が少なく、親指で特定のキーを押しながら入力すると一つのキーに2文字が割り当てられる。これにより、使用するキーが劇的に減って運指もラクになる。メリットだけみると凄そうに見えるから不思議である。
打ち込む回数は減るし、指の動かす回数も減るし、良いことづくめだ!と思い、職場近くのマックでひたすら練習していた。幸い、愛用しているポメラは親指シフトに対応しており、割り当て文字が印刷されたA4用紙を横に並べていっちゃん安いハンバーガーを食べながらポチポチ。
それなりに文章が打てるようになったけど、歌うように打つためには歌詞となる思考力が必要だった。打ち込む速度に脳みそが追い付かない。ここまで来たのに残酷だ。案の定、即辞めた。いまやれって言われても全く覚えていない。
時は流れて現在。タイピングよりも思考速度が上回るようになった。努力の賜物というべきか、思考が整理されず渦巻いているというべきか。とにかく、出力スピードを向上させないと頭がパンクしそうになる。
狂ったように寿司打(タイピングゲーム)を遊んでいたある日、「歌うように打つくらいなら、歌って入力した方がラクじゃん」と閃く。こうゆうに電流走る。Googleドキュメントを開き、音声入力をONにしてラジオと同じ感覚で思いついたことをペラペラ喋ると、30分で4,000文字近くの駄文が書きだされていた。
大革命である。
そのまま使えないけど思考メモ代わりになるし、頭のなかが空っぽになることで別の思考が動くようになる。吐き出したメモを深掘りしても良いし、横にずらして別の考えを引っ張り出すこともできる。神すぎて神。資本主義を感じる。知識は力だ。
4,000文字の駄文をChatGPTに要約してもらい、深掘りできそうな箇所を聞く。そしてフィードバックを得た後、もういちど歌を歌って追記して再チェック。これを数回繰り返すだけで相当潜れる。
何が足りないか聞いたうえで、自分で考えて提示するサイクルが超高速で回るとどうなるか。悩む間もなく自分の言いたかったことが見えてくる。最後に文章をまとめれば、あら不思議。なんかそれっぽい結論が勝手に出力されているのだ。
感覚的にいうと、めっちゃ聞き上手の先輩インタビュアーが話を聞きだしてくれるみたいな感じ。しかも要約までしてくれて、「次にここを聞きたいです!」まで教えてくれる。すごい世界になったのものですよ、まじで。1人でずっと遊べる。
あの頃必死に覚えようとしていた親指シフトも、間違ってはいなかったのかもしれない。指では歌えなかったけど、いまでは口で歌えている。時代は変われど、やりたかったことは変わらないものだなと思った。
毎回恒例となった今日のゲームは『Cricket Through the Ages』クリケットを題材にした一風変わったスポーツゲーム。プレイを通じて初めてクリケットのルールを知った。見た目はバカゲー寄りだけど、ワンボタン操作と物理演算を活かしたゲーム性で軸がしっかりしている。
バットでボールを打つと得点が入り、背後の積み木を壊すと攻守が交代。球を投げられる前に腕をぶんぶん回して突進もOK。相手をボコって球を奪えば良い。
ルールは存在しているようで実際は機能していない。スポーツマンシップ抜きのスポーツが楽しめるのも良かった。この辺の曖昧さにバカゲー感が集約されていて一人でも楽しめると思う。二人の方が絶対楽しいけどな!!!
ふざけた雰囲気をまといながらも、操作性やルール設計は丁寧で、「真面目にも作れた」であろう雰囲気も伝わってくる。バカゲーに振り切ってるけど雑さはない。おふざけのなかに隠れた誠実性。こういう男がいたらモテると思う。
石器時代から現代、未来へと時代を横断しながらクリケットの歴史(嘘と本当が混ざった物語)を描く構成もユニークで、試合の休憩時間に紅茶を飲む史実もネタとして織り交ぜられている。普通に勉強になった。こういう教養ありがてぇ~~
ゲームとしての軸があるからオフザケが生きている。一人プレイでも十分楽しめる。でもまぁ、本来は対戦向けの作りだし、バカゲーを一人で消化する難しさについても考えさせられた。もう少し深掘りしたらコラム記事としても面白くなりそう。
総じておすすめです。
クリケットの名前を聞いたことはあっても、それがどんなスポーツなのか調べたことは一度もない。結局、自分に関係があると錯覚しない限りは情報を積極的に取り入れられないのかもしれない。
Wikipediaを数分覗くだけでも充分なのに、それすらも怠けてしまうものなんだなと俯瞰する。新しいことへの興味が薄れていく現実が怖い。それが悪いことじゃないんだけどさ。
床に積まれた本に埃が乗っている。いつからそこにあったのか分からないくらい放置されているのだと気づく。読んだ本と読んでない方が混在した本の塔。ところどころ、本が傾いて歪な形。一番上には無造作に財布が置かれている。
だらしない自分への罪悪感も感じるけど、怠惰な日常をのんびり眺める肝も据わってきた。斜塔の真ん中にあるスズキナオ著「遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ」を引き抜く。意外と崩れない。ジェンガみたいで面白い。
中古で買ったので誰かが使ったしおりが入っていた。なにやらメモが書かれている。
”実践はできる、すぐにでも、ってことばかり書いてありますがやってみよう、と思える元気はそうそうでない、ようなことの詰め合わせ本です。やってみても、旅のようには思い出せなくて、でもたぶん、やってみたらその一日はちょっとたのしい。みたいなことをくり返しくり返し、時々、日々のすきまにいれていけたらたのしいでしょうが、まぁ、できなくてもこの本がやってくれてます。”
俺もこんなことを書きたい。
そう強く思った。