ドアノブを回して扉を引き込む。やけに軽い鈴の音が鳴り、ドアの隙間から漏れる紫煙で肺が圧迫される。テーブルには新聞を読みながら談笑するおじさま達が鎮座し、客が来ようとお構いなく豪快な笑い声を轟かせている。朝の9時から景気が良い。
「お好きな席へどうぞ」。マスターはしわの入り込む余地がまったく想像できないベストをちょこんと持ち上げ整えた後、奥まった場所に置かれたミニテーブル席を指差している。ここまではパーフェクトだ。
期待通りのアウェイ感、銘柄の混ざったタバコ臭、何事もなく日常を過ごす常連さん。これでこそ地元の喫茶店に足を運んだ甲斐がある。初手は空気を読んで、手間の掛からないジャムトーストを頼んでみた。嫌な顔をされなかったのできっと許された。
この町に引っ越してから約半年が経過する。一人で住むには勿体ないものの、二人で済むにはピッタリの2DKアパートを住処とし、何も起きない平和な日々を謳歌していた。まぁまぁ充実していたと思う。
近所のスーパーで蛍の光を聞きつつ特売セールに飛びつき、ときたま八百屋まで遠出して皮の張ったトマトやナスを購入する。気まぐれに常備菜をストックして悦に浸り、地味だがそれなりの営みを感じていた。
気の知れた人間との会話ネタも枯れ果て変化を求めていた頃、住宅街の外れにペンキの剥げ掛かった喫茶店を見つけた。喫茶店を題材にしたエッセイを読んだばかりで憧れも募っており、翌日には常連でもないのに店内を陣取った。若さ以外の何者でもない行動力。
世間への感心を閉ざした玄人の立ち振る舞い。ここが終の棲家といわんばかりに足を放り出し、自宅以上にのびのびと過ごすおじさん達。自分にないものを全て持っているような気がして格の違いに嫉妬した。
優雅な時間を過ごしたい訳ではなく、他人の日常に触れたい。我ながら面倒くさい性格だなと思いつつ、特別感も何もない浪費が辞められない。超熟6枚切り2セットと同等の価値を持つジャムトーストを囓りながら野暮な想いを巡らさせる。後悔はしていない。
しかし、店内は窓を閉め切っており凄まじいタールを感じされる。せっかく来たからとポメラを叩くものの、非喫煙者が居座るには中々にしんどい。焼いた食パンとコーヒーを食べてそそくさと退出。常連さんも顔を見合わせていた。
近くのファミリーマートでファミチキとコロッケパンを買い、店の外に置かれたベンチに腰掛ける。なんだか大学生みたいな朝食だ。がつんと腹に溜まるパンを頬張りつつ、最近遊んだ喫茶店のゲームをぼんやりと思い出していた。
『アイアイ喫茶店』は全メニューが何らかの合言葉になっているユニークな短編ADV作品だ。アイスコーヒーとチーズトーストを頼もうが、ジョロフライスと呼ばれる聞いたことのない食事を頼もうが、ウェイトレスによって奥の部屋に通される。
秘密の空間ではマスターの小話を聞き、たまに使い道が全くないアイテムも手に入る。その後、もう帰りなさいと強制帰宅させられる。「喫」は何処にいってしまったんだろうか。しぶしぶ帰路につくと店の方から銃声が鳴る。誰だって足を止めるだろう。
気になって戻ろうとした瞬間、先ほどのウエイトレスが現れてこちらに拳銃を突きつける。これ以上は進めない。結局、事件は迷宮入りだ。時は経ち、数年後に喫茶店の経緯やヒントが明かされる。例えば、ウェイトレスの得意料理とか。
今作は選んだメニューによって結末が分岐するマルチエンディングを採用しており、月日が経って喫茶店が潰れてしまう場合もある。はたまた、大食い選手権にエントリーするなんてことも。風が吹けば桶屋がなんとやら。全ては地味に繋がっている。
どうやら、ほんとの合言葉もあるようで色々なモノを頼むことになる。みそかつサンド、ホットケーキ、メロンソーダ。見様見真似の炒飯もあって、実存する店なら相当愛されるだろうなと思った。こんなチャーハンがあったら絶対に頼むよね。
そのほか、帰り道に町の地図を拾ったり、別のお客さんがレシートを落としたり、関係ないようなものが真相と紐付いている。マスターに絶対解けないルービックキューブを貰ったときはどうなるかと思ったけど、気付けば夢中で合言葉を探していた。
喫茶店での戯れが物語に影響を与え、少しづつ謎が薄まっていく。さながら氷のたっぷり入ったメロンソーダのようだ(あんまり良い表現ではない)。気になる真相は死んでも言わないので、気になって夜も眠れない人は要チェックです。
しかもこのゲーム、お値段450円。ジャムトーストよりも安い。アイスコーヒーよりも安い。なんならお釣りまで来てしまう。家の近くに喫茶店がない人も、喫茶店巡りが趣味の人もきっと楽しめる小粒アドベンチャー作品なの是非遊んでほしい。
「なんとかここまで書けた…」。気合いを入れるため行きつけの喫茶店に来た甲斐があった。ドアを開けても副流煙は襲ってこない。喫茶店=タバコの偏見こそあったものの、今となっては珍しくないらしい。視界が曇らない喫茶店としてココを重宝している。
昔住んでいた場所から引っ越し、部屋も大分狭くなった。とはいえ、近くに公園と喫茶店があるので悪い気はしない。遙か昔に突撃した哀愁漂う喫茶店が懐かしく思える。随分ガタが来ていたので、無くなっていても不思議ではない。もう何年経つのだろうか。
最後の最後で筆が止まり、2杯目のアイスコーヒーが置かれた。エチオピアのイルガチェフェ産の豆を使った浅煎コーヒー。酸味が強めであっさりした飲み口が気分に合う。豆はさっぱり分からんけど美味しいから良しとする。
当然、何を頼もうが店の奥に通されることはない。この喫茶店は1年近く毎月顔を出すけど相変わらずだ。仮にたくさん注文しても太客として愛想が良くなるだけで終わるだろう。
ここ最近は急がしくて顔を出せず、久々に来てみると新顔さんが注文を取りにきた。慣れていないのか、ワンテンポ置いて「ミルクとオサトウはお付けシマスカ?」と唱えてきた。真面目に頑張る若者は尊い。
ふらっと知らない店に入るのも、いきつけの店に入り浸るのも、それなりの出会いが待っている。店員さんと顔を合わせてメニューを頼む。たった一瞬で「見たことある人」になるから面白い。無意識下で関係値が構築されているんだろうなと思う。
喫茶店の何が好きか言われても分からない。ゆったりした空気感なのか、適度な距離感なのか。熱することもなければ、冷めることもない。常に平温で刺激のない時間が愛おしく思える。生活は相変わらずだけど上手く生きられている気がした。
「今日はテラス席じゃなくて良いんですか?」「ちょっと今日は暑すぎて…」この会話をするためにまた来るんだろうなと思う。数分後、先ほどの店員がアイコンタクトして小さいメレンゲクッキーを渡してきた。チョロい人間なので絶対にまた来ると誓った。
喫茶店の小さなアイが好きだ。
〈詳細情報〉
| ゲーム名 | アイアイ喫茶店 |
| ジャンル | ビジュアルノベル |
| ストア価格 | 450円 |
| リリース日 | 2025年8月29日 |