クソッタレな人生に捧ぐゲームたち

鬱屈した生活を送る人こそ、刺さるゲームがある。

本記事に載せたゲームはそんな人に薦めたい作品でもあり、私の生活を支えているゲームでもある。

あなたがクソッタレな毎日に辟易としているなら、安酒を片手にここにあるゲームをプレイするのも一興かもしれない。

慰めになるか、破滅への一歩になるかは分からないけど。

『Enderal: Forgotten Stories』

漠然と”何者かになりたい”と思っている。

似たような思いを抱いている人も、きっと多いのではないだろうか。

ゲームは”それ”を疑似的に満たしてくれる。何者にだってなれるし、どこにだっていける。

現実は何を成すにも努力が必要で、辛くて苦しい。ゲームはそれをすっ飛ばして(あるいは簡略化して)、成功体験が得られる。

しかし、時として虚しさにもなる。

『Enderal: Forgotten Stories』は、スカイリムを改造して作られた、一見ありがちなオープンワールドRPGだ。

他国から来た密航者としてゲームが始まり、なぜか突然、魔法や戦闘の才能に目覚め、国を救う立場へと成り上がる。

選択次第で人を助けたり、私欲を優先したり、自由なロールプレイを楽しめるのが魅力だ。

全体的に暗く退廃的な世界観。すべての遊びがメインシナリオと地続きなため、探索やサブクエストもやり甲斐がある。

気づけば夢中で「Enderal」の世界に没入していく。しかしこの世界に染まるほど、深い絶望が待っている。

本作のシナリオは救いがない。

自由なゲーム性とは裏腹に、プレイヤーがいかにこの世界で振る舞っていても、手のひらの上で転がされているだけだと突きつけられる。

虚構の成功を得ようとするプレイヤーの心を見透かし、嘲笑する。何をやっても無意味だと痛感させられる。そんな無力感に打ちのめされたい方におすすめです。

『Night in the Woods』

「戦争よりも日常生活の方が恐ろしかった」と、三島由紀夫は自伝に書いたらしい。(どんな文脈で書いたのかはわかんないけど)

『Night in the Woods』はまんまそんな感じのゲームだった。結構なサスペンスが主導となってストーリーが進行するのに、描かれている日常がしんどすぎてそんなのどうでも良くなってくる。

大学を中退した主人公「メイ」は、寂れた田舎町「ポッサム・スプリング」に帰る。かつての友人達はそれぞれに悩みを抱え、両親はメイの帰りを心よく思ってはいない。

町中では、常に生活苦の匂いが漂っている。

このゲームでは、そんな町をゆったりとしたスピードであちこち探索するため、プレイヤーはかなり退屈な時間を味わう。

描かれる日常が辛い、と言ってもハチャメチャに不幸な生活が描かれるわけじゃない。むしろ私たちが普段抱えているものと大差は無い。

誰にでも出来る仕事をして、最低限の暮らしを営む人々。そこには希望も何もなく、不満と疲労が貯まるだけ。

そんな”クソッタレな毎日”が、退屈なゲーム性により強調させられる。こんなものを体感させるなんて嫌がらせだと思う。

でも決して手抜きな作品ではない。メイの大人になりきれない甘ったれた感じとか、もう、本当に嫌なとこを的確に突いてくる。

非常に上質な嫌がらせだった。

『Life is Strange:Before the Storm』

今作は、父親を亡くし、親友からも見捨てられ、荒んでいる少女「クロエ」が、本格的に人生のレールから外れていく様を描く。

物語開始時点では、クロエの現状も本人が思ってるほど悪くない。だが、過去に縋り続け、自己憐憫が癖になってしまっている彼女は、自分から破滅へと向かってしまう。

本当は才能にも恵まれていて、いくらでもやりようがあるのに。

自分は何をやっても不幸になるしかない。そんな思い込みが彼女をよりどうしようもない現状へ突き動かす。傍から見れば愚かだけど、これを読んでる人には死ぬほど身に覚えがあるんじゃないだろうか。

今作は彼女の退廃的な世界観を”これでもか”ってくらい音楽と情景で演出してくる。感情移入しないわけがない。

自暴自棄に陥って、何かを台無しにしてしまったことがある人には、きっと深く刺さる作品だ。

『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』

少し前、イマジナリーフレンド(正確にはタルパ)をネットの情報から見様見真似で作ろうとしたものの、うまくいかなかった。

もし成功しても24時間ダメな私を罵倒し続ける存在になっていそうなので、それで良かったのかもしれない。(「タルパの暴走」で検索すると、怖い事例が書かれてたりします)

『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk…』
通称『milk1』は、プレイヤーが主人公の”空想上の友達”となって、彼女が牛乳を買いに行く間の対話相手となるビジュアルノベル作品だ。

“タルパの暴走”と同じように、彼女を罵倒したり傷つけるような返答をすることもできる。

が、プレイヤーは空想上の存在なので、彼女の気に入らない返答を続けると消されてしまう。エンディングを見るためには、”都合のいい友達”を演じるしかない。

彼女の大きく歪んだ、あるいは都合よく認知された世界を、解像度の低い3色のドット絵で描く。抽象的なグラフィックが、グロいわけじゃないのにグロく感じる怖さを演出している。

統合失調症に罹っている少女の脳内を覗き見るゲーム(不適切な表現かもしれん)とも言えそうだが、プレイしている時の感覚は少し違う。

彼女の語りかけている対象が、想像上の友人なのか、プレイしている私自身なのか、わからなくなってくるのだ。

メタフィクションっぽく見せてるけど、違って、でもメタフィクションっぽくて…何が言いたいのか分かんなくなってきた。もう寝る。

『CHAOS;CHILD』

ギャルゲー(もしくはその文脈で生み出されたゲーム)などに出てくるヒロインたち。彼女らは時として”都合の良い女の子”と呼ばれる。

勝手に世話を焼いてくれるお姉さん、常に信頼を寄せてくれる幼なじみの女の子。まさに、プレイヤーの妄想を具現化したような存在だ。

『CHAOS;CHILD』は”都合の良い女の子”を否定し、”妄想への依存”からの脱却を描く物語だった。

一方で、「妄想力が生み出す力」もテーマにしており、単純に「現実を見ろよ、バーカ」的な説教をしているわけではない。多分。

…というかこんな書き方をしたが、全体的にはめちゃくちゃ都合の良い世界の話である。わかりやすい陰謀も存在するし、超能力(一応科学的な根拠を付けている)も存在する。

だからこそ本作は、そういった”都合の良い存在”に依存しやすいプレイヤーを集めて、この上ない絶望と余韻を残すエンディングを与えるのだ。

なんとも鬼畜である。

『Firewatch』

人が怖い。だから自ら望んで孤立した生活を送っている。

なのに、スマホで他人が発する情報を四六時中眺めている。それが虚構で一方的でも、”人とのつながり”は強力な快楽と安心感を生むからだ。

『Firewatch』は、人とのつながりを上手くゲームに落とし込んでいる。

主人公はどうしようもない現状から逃れるため、山奥に閉じこもり「森林火災監視員」として働き始める。ゲーム内容も、山奥を探索するだけ。

その設定とは裏腹に、プレイ中はかなり楽しい感情が湧く。最大の要因は、大自然が演出する圧倒的な孤独感によって強調される、他者の存在だ。

作品内で他人と直接会う事はほぼ無い。その代わりに上司である女性とトランシーバーで通話することで、情報を補完しながら進行していく。

とにかくこれが楽しくて、ことあるごとに彼女に話しかけてしまう。

さらに大自然の中に残された”他者の痕跡”は、少し不気味だが好奇心も刺激してくれる。

気づけば、非日常の中で生まれた新しい絆や、山奥に残された謎に夢中になる…が、あくまでもそれは一時の非日常であり、主人公はどうしようもない現状と向き合うように促される。

我々プレイヤーもそろそろ現状と向き合うべき時が…なんつって、そんな簡単にいかないっすよね。

あとがき

たったこれだけの記事なのに思った以上に時間がかかってしまいました。

普段ボケ―っとに読んでいた記事を書くライターさんや、ブロガーさんたちが、いかに凄いのか再確認しました。本当に。

先に参加された方の記事が、一つのゲームのさらに一部分である「暴力」について自分の心象とともにとても深掘りして書かれた素晴らしい記事だったため、正直こんなレベルで参加していいものか恥ずかしくなりましたが、ええいままよと書いてみました。

少しでも暇つぶしになってくれたら幸いです。

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